徹底検証!酸素缶
富士山登山に係わる様々なガイドブック、サイトで紹介され、ときには高山病予防に必須の装備であるかのように宣伝されている「酸素缶」。そもそも、酸素缶とはどのようなものなのでしょうか?
高山病と酸素の関係
我々の多くが住む平地は、およそ1気圧(海水面で1,013.25hPa[ヘクトパスカル])ですが、気圧は高度が10m上がるごとに1hPaづつ下がります。富士山山頂では、7~8月の平均気圧が646~648hPaと計測されています。これは、標準大気圧のおよそ64%という値です。
ある一定の空間における酸素の量は大気の密度に比例するので、気圧が下がる=大気が薄くなれば、酸素の量も減るということになります。つまり、富士山山頂の酸素は、平地の3分の2と言われる根拠がそれです。
この気圧の低下によって大気密度が下がると、酸素を肺から血液に取り込む際に掛かる力である『酸素分圧』が低下します。これにより、平地と同じように呼吸をしていても酸素摂取量は減少しています。
この酸素の減少は、単に息苦しさを感じさせるだけではなく、高山病という、最悪の場合は命に係わるような病態をもたらします。
そこで注目されているのが、一般に「酸素缶」と呼ばれる、スプレー缶の容器に濃度95~99%の酸素を詰めたものです。このような携帯型の酸素を使うことで高山病の予防、治療に効果があるのか、それを検証してみたいと思います。
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予防的酸素吸入
酸素を吸いながら登山を続けるには、大量の酸素が必要
高山病の原因として、酸素不足が一因であることは事実です。では、酸素缶で酸素を吸えば、高山病を回避することが出来るのでしょうか?
酸素を余分に吸っても意味は無い
酸素缶の効果を考える上で、大事な要素は使用可能時間です。我々人間は、普段1分たりとも呼吸を止めることなく酸素を身体に取り込み続けています。
心臓は安静時で1分間に約60回、運動時には最大で200回近くも拍動し、血液と共に酸素を休み無く体中に送り届けています。
この酸素の供給は途切れなく続けなければならず、一時的に酸素の摂取量を増やしても、過去の酸素不足による酸素負債の解消に使われるだけで、それ以後の未来の酸素不足を補うことは出来ません。つまり、今必要な分以上の酸素を体内に余分に取り入れておいて、それを後から使うということは出来ないのです。
根本的な原因を取り除くことが大事
これは、酸素缶で酸素を吸って酸素不足から一時的に回復しても、酸素不足を起こす状況(原因)が改善されていなければ、すぐに元通りになってしまうということを意味します。それでは対症療法でしかなく、根本的な原因を取り除くのに却って障害となることもあるのです。
それは当然ながら登山中も同じことで、携帯酸素に頼りながら登山を続けるのであれば少なくとも標高3,000mぐらいから登頂後下山を開始して十分高度を下げるまで、最低3~4時間分の酸素が必要になるでしょう。しかし、実際には酸素缶の容量は限られており、わずか数分で酸素が尽きてしまいます。
このことから、高山病を発症しながらも携帯した酸素を吸うことで登山を続けようとするには、酸素缶では十分な量とは言えないことは確かです。
現に、ヒマラヤ山脈など8,000m級の高所登山では重い酸素ボンベを何本も使用して登っていますが、「酸素缶を持ってエベレストに登った」などという話しは聞いたことがありません。
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治療的酸素吸入
高山病の治療にも、大量の酸素が必要
そもそも、血液は、安静時でもわずか1分前後という早さで体内を一回りしています。酸素は余分に溜めておくことが出来ない(筋肉組織中にあるミオグロビンでの貯蔵を除く)ため、息を止めれば数分で血液中の利用できる酸素を使い果たしてしまうのです。
一方、高山病を発症し、治療として酸素缶を使う場合はどうでしょうか?
医療行為においては、医師の判断と設備、患者の容態によりますが、100%の酸素を通常2~3ℓ/min(毎分)、緊急時は5~10ℓ/minで、最低10~15分。様子を見ながら症状が改善されるまで30分以上、という具合で酸素吸入が続けられるようです。
このように、治療目的で酸素を使う場合でも、最低20ℓ。
より実質的な効果を期待するのであれば、60ℓぐらいは必要ということです。
わずか2分の酸素で、何時間も登り続けられる?
それに対して、一般的な酸素缶の容量は5ℓであり、1回2秒の噴射で50回使用可能となっています。つまり、連続使用した場合は、2分ももたない計算です。わずか数分しかもたない酸素缶では、高山病の治療に対しても十分ではありません。
もしも高山病が悪化したら、その場に留まって酸素缶で酸素を吸い続けるよりは、すぐに下山することが一番の選択肢になります。
但し、高山病が重篤化して緊急下山しながら患者に吸わせるのであれば、悪化を多少止める程度の効果はあるかも知れません。(※訂正:後ろの項目で説明しているように、リバウンドを考えると中途半端に吸わせない方がいいのかも知れません。必ず医師の診察と指導のもと、設備が整った場所で酸素吸入を受けるべきでしょう。)
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酸素吸入によるリバウンド
安易な酸素の使用は危険もある
酸素は、ただ吸わせればいいというものではありません。症状が緩和し、それ以上悪化しないということが医療者によって確認出来るまで、継続的に吸入させ続けなければいけません。
酸素の供給時間が限られているにも係わらず、高山病だからといって無闇に吸わせると、酸素が切れたときにリバウンド(反動)が発生する可能性があるのです。つまり、「酸素を吸う前よりも、具合が悪くなってしまう」ということです。
酸素缶を持っていても、高山病が悪化する前に下山の判断を
このように、「酸素が切れたら単に元に戻るだけ」というわけではありません。実際に、富士山の救護所では、高山病によって酸素吸入をさせたあとの登山者には、そのまま下山することを奨めています。
「奨めて」というのは、医師に登山者を下山させる強制力がないだけの話で、酸素吸入によって少し体調が回復したからといって登山を継続するのは、医師としても認めていないということに他なりません。
これは、当然酸素缶についても同様です。高山病で重い症状が出ているのに、酸素缶で多少落ち着いたからといって登山を続けるのは、とても危険な行為です。山は逃げないのですから、改めて体調を整え、捲土重来を期すのが賢明でしょう。
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結論
富士登山に、酸素缶は必要ない
ここまで読んでいただいておきながら何ですが、細かい検証は無意味だったかも知れません。酸素缶が数分しかもたないことさえ分かれば、もう答えは出ているようなものですから。
つまり、いくら呼吸が苦しいときに酸素吸入が有効だと言っても、数時間に及ぶ長い登山で、わずか数分だけ楽になっても大して意味がないと言うことです。
無闇に酸素缶を薦めるな
一方で、「『お守り』として持っていてもいい」と言って酸素缶を薦める人も居ます。
それは、すでに高山病に実際に掛かってしまって、「精神的にまいっている」「不安でたまらない」という人が、「落ち着いて考える余裕を作るため」であれば、それなりに持って登る価値があるということかも知れません。
しかし、そうであるならば尚のこと、数分しかもたないことを予め知らせておかないと、酸素が切れたときにパニックに陥りかねません。さらに酸素缶を使い果たしてしまった後、リバウンドによってさらに症状が悪化する可能性まで考えなければ、無責任という謗りを免れないでしょう。
ですが、それでも酸素缶や酸素水に幻想を抱く人も少なくないようで、このような数字を示した方が納得する人も居るのかな、ということであえて記しました。
酸素缶を使う前に呼吸方法の見直しを
結論としては、「酸素缶は富士登山に不要」というのは変らないですし、もしも「体調が良くないけど高山病?」と思ったら、まずは、ゆっくり深呼吸することを試すべきです。大抵の場合は、正しい呼吸が出来ていないために酸素不足になっている人が多いからです。
それでも改善しないほどに高山病が悪化したら、すぐに高度を下げるべきです。「具合が悪いけど、酸素缶があるからもう少し・・・」という判断ミスに繋がることが、最も危険であると思います。
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酸素缶取り扱い上の注意
酸素の危険性
それでも酸素缶を持ちたいという人は、以下のことに充分注意を払ってください。自分が怪我をするだけならまだしも、もしも他人を怪我させたら、一生後悔することになります。
濃縮酸素による火災死亡事故が実際に起きています
以下の動画は、濃縮酸素を吸入する在宅酸素療法中の喫煙などにより、6年間で26人もの死亡事故が起きているというものです。
酸素缶も、濃縮酸素を噴出させていることに違いはありません。もし登山中に衣服に火が燃え移って火だるまになっても、山では火を消す水もありません。
「自分は大丈夫」
そうは言っても、人間誰しも「うっかり」ということは起こり得るものです。また、自分は注意していても、酸素缶の危険性を知らない誰かが、酸素缶を吸っているあなたの後ろでタバコに火をつけるかも知れません。
役に立つならまだしも、役にも立たない危険なものをあえて持って登る必要性は、微塵もありません。
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